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人生を楽しく!2 [礼拝]

 IMGP5181.jpeg たいせつなこと、それは 知っていること。なにを?

人生を支えてくださるお方が誰かを。

そして 自分の手を握ってくださる方を。                       

人生を楽しく! 

もう一つは日々の心配事を神さまに明け渡すこと。                 

「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、

 自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」ルカ12の25ー26                           

イエスさまは 自分のいのちを少しでも延ばすことはーこんな小さなことーと言われました。

いのちを50センチ 前に進めることも出来ない私たちにとって 驚くべき言葉です。               

イエスさまにとって不可能がないこと、そして地上のいのち以上にたいせつなものがあるということでしょう。

 ところが 私たちは自分の心を占めているたくさんの事柄にとらわれて、

神さまが自分の力の源であることを忘れてしまいます。

心配はしても自分に出来ることはないのに手放せないのです。

そして心配していると神さまが計画された自分の人生を楽しく過ごせなくなります。                     

神さまは私たちを愛で取り囲んでいてくださるお方、私たちの未来を支える希望です。 

願わくは 神さまに目と心を向けることが出来ますように。


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Be Loved Today [礼拝]

 IMG_6954.jpg今週の土曜日 川口リリアで ゴスペル・コンサートが 6時30分から行われます。  

 浦和からも BLT という名前がつけられた、親子のみなさんのグループが参加されます。

BLT それは「私たちは 今日 愛されています」という意味。

いつでも そう感じられることは すてきですね。

そして必要なことです。      

「神さま あなたが 私の内蔵を造り、母の胎のうちで 私を組み立てられたからです」

詩へん 139 の 13              

自分が神さまに形造られて生まれたことを知っていること。

そして自分の両親に待ち望まれて生まれてきたことを知っている。

長い人生を歩むとき、これが大きな励ましになり、

「何があっても 大丈夫!」という自信になります。                

New York ヤンキースの内野手が開幕戦を休みました。

我が子の出産に立ち会うためでした。

彼は 我が子に「お父さんは ぼくが生まれた時、何をしていたの?と聞かれた時に、

お父さんは  Yankee スタジアムで ホームランを打っていたよ、と言うより

お父さんは 君のへそのおを切っていたんだよ」と言いたかったと

ある方が 日曜日の礼拝のなかで分かち合ってくださいました。

すてきですね。              

たとえ 自分の両親に 十分に愛されているように 感じられなかったとしても

あなたは あなたを造られた神さまに今日も明日も、

ずっと愛されていることを BLT の名前を聞くときに 思い出して頂けたら 幸いです。                      

コンサートでお会い出来たら うれしいですね。    

BLT のみなさん  愛されている喜びに満たされて たのしく賛美出来ますように 応援しています。

コンサート情報: http://www.hgfjapan.com/home.html

ハレルヤ・ゴスペル・ファミリー合同チャリティーコンサート 6時半開演

さいたま市川口 川口駅すぐ 川口リリアにて 


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Mom は 初めから Wow な存在 [礼拝]

IMG_3685.jpeg 

遅まきながら 母の日を感謝します。

Mom を Wow にする車のコマーシャルがながれる中思いました。    

Mom は初めから  Wow な存在だと。

いのちをかけて出産に臨み、いろんなかたちで与えられた子供のために身を削り、

子供の将来を思いつつ 育てるなかで 時に反発され、

あるいは責められることがあっても 子供のために 自ら 母親としての成長を願いながら、

その子が与えられた日の覚悟を思い起こす そんな母の姿こそ

神の愛を映し出していることに疑いの余地はありません。    

たとえ もしかして今の自分は情けないと感じていたとしても お母さん、

あなたがたはいつでも Wow ー Amazing ー な存在であることを忘れないでいてくださいね。      

 

 「しかしマリヤは、 これらのことを すべて心に納めて、思いを巡らしていた。」      

ルカ 2 章19節  

母親でいるみなさまに感謝しつつ、祝福を祈ります。


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ゴールデン・ウィーク スペシャル 3 Selfie [礼拝]

IMG_0358.jpeg 

オバマ大統領が マンデラ氏の葬儀に参加した際 各国の首相たちと 自分たちの写真を撮ったことで

Selfie ー「自分撮り」が有名になり、イギリスでは 流行語大賞にも選ばれました。        

自分撮りをおもしろがっているうちはいいのでしょうが、 外国では 自分撮りーSelfie で

自分は醜い、生きている価値がないと感じ、自死する若者が出てきているということです。              

どのように自分撮りをしても 思いどおりの自分に写らないからだそうです。          

時代の進歩についていく、コンビニ効果の反面、つらく悲しい現実に10代、20代のいのちが危険にさらされています。      

言葉遣い、振る舞い、外見、成績にばかり、親も気をとられてしまいがちですが

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 イザヤ 43章4節 ー

と神さまから見た子供の姿を伝えるとともに、親の、心からの思い、

「生まれてきてくれてありがとう。あなたに会えてうれしい。」

と伝えようではありませんか。

それが一番のゴールデンウィークになるのではないでしょうか。


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重心は下に。 [礼拝]

IMG_8244.jpeg

近頃起こった客船の大事故。原因はたくさんあるようです。

救われるいのちの生還を私たちは待ち望んでいます。        

 原因のひとつに船の改造で重心が高くなったことがあげられています。

重心が高くなると船は傾きやすくなる。

荷物が多くなると 倒れそうになる私たちのようです。          

 

今日あなたの重心はどの辺にありますか?

イエスさまは

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ーマタイ 11章28節 ーとおっしゃいました。

 重心は下に。それは 十字架のイエスのもとに、人生の荷をおろすこと。

そう思いませんか。

浦和キリスト教会 牧師 


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「もう我慢の限界?」 [礼拝]

【聖書箇所:新約聖書 第二テサロニケ3章5節】

 昨日、ここに礼拝の準備に来た帰りに、パインズホテルの近くを通りました。そうしたら、ある家のベランダに洗濯物が干してありました。よくみると浦和レッズのユニフォームでした。数えてみると11枚ありました。番号を調べてみると昨日の先発メンバーを予想したようなのが書いてありました。一着5000円ぐらいするのでしょうか。11着か、ああすごい献身的だな(笑)と思い、家に帰りました。

 新聞を見ますと、他のチームから新加入した、昨日の試合でも活躍した、珍しい名前の選手のコメントが出ていました。「僕は名前を覚えられていないのでスタジアムでも呼ばれないんですよね。もっとアピールしないと。」。周りの人からの声援や応援は、かけがえのないものですね。

 

 あすで3.11(東日本大震災)から2年が経ちますけれども、被災者の変わらない現状がテレビなどの番組で多く流されていました。応援メッセージは、「もう少し頑張って」あるいは「もう少しの我慢」がとっても多かったと思います。

 さて、皆さんは忍耐強い人でしょうか。あるいは、周りを見渡して、誰が教会の中で忍耐強いかな、と思われるでしょうか。私はそういうときに、「自分以外に」忍耐強いのはあの人ではないか、と思うんですよね。絶対に自分が忍耐強いなんて思うことができない。

 

 生活パターンの変化にもよるのでしょうが、私たちは、いつも「先へ先へ」「速く速く」、そういう傾向をもって自分の道を歩んでいるのではないでしょうか。自分の道を歩むことは大切ですが、自分本位になってしまうことには注意を払わなければならないわけですね。

 私は自転車をもう乗らなくなりましたが、あいかわらず自転車で行き違う方々は右側をがんがん走ってきてですね、あれちょっと違うのではないか、とずいぶん文句を言いたくなります。車はすぐにクラクションをならして、右折のサインを出しているのに、なんで前の車は行かないんだと、運転手はいらいらしています。また、あるときには、新車を買った人が交通渋滞に巻き込まれ、となりのレーンが空いているのでいってみたら、セメントづけになってしまったなどということも、ある本に書かれていました。

 

 私たちは、いつも「先へ」あるいは「速く」、自分は「予定通り」に「計画通り」に、それがスムーズに進むように、そういうことを思っているので、待てない、ということは、忍耐強くない、ということですね。人付き合いの場合でも、うまくいかなくなったときに、まあ、ある方々はこれは自分が悪いのだと思うかもしれません。しかし、多くの場合は、相手がもう少し変わってくれればと思うことが多いのではないでしょうか。そして、そのイメージを、人間に対してだけでなく、神様に対しても、当てはめてしまうのではないでしょうか。神様も、うちの父親のように怒りっぽいのではないか、うちの母親のように短気ではないだろうか、職場の同僚のように過ちを許さないのではないだろうか。そんなイメージを神様に持ってしまうことが多いようです。

 

 でもここで、第二テサロニケ3章5節に、これは、パウロが再臨を待ち望むテサロニケのクリスチャンに2000年前に宛てて書いた手紙ですが、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」とお祈りしています。神様は、あなた方が思っている以上に、なんと忍耐強くあなた方を愛している御方なのだろうか。そうであるがゆえに、十字架のうえでイエスさまがあれだけの忍耐を示してくださったのだ、ということをテサロニケのクリスチャンにわかってほしい。そういうことを願ってこのような手紙を書いています。

 

 いま私たちはイエスさまの十字架を忍ぶ受難節を過ごしています。イエスさまは私たちのためにご自身の立場を捨ててくださいました。自分の特権を行使することをなさいませんでした。この地上に来られたときには、僕(しもべ)として来られた、と書かれています。それは、ご自分のいのちを、私たちのいのちが生きるために、犠牲として与えるためであった。 なぜ、そこまでしなければならなかったのか。それは、唯一の天の父なる神と、私たちの創造主と、私たち人間が、もう一度喜びにあふれた関係を取り戻すためであった、と聖書は語っています。

 

 さてイエス様はどれぐらい犠牲を払ってくださったでしょうか。想像できる方がおられますでしょうか。個人的なことに当てはめてみると少し具体的に考えることができるかもしれません。たとえば、あなたが普段している好きなこと、あるいは好きなものをしばらくの間我慢してみよう。そういう試みをしたとしましょう。一週間、一ヶ月、一年間と決めて、ようし我慢するぞ。でも、多くの場合、我慢しようとすればするほど、いっそう強くそれを求めてしまうのが、私たちの傾向ではないでしょうか。そんなことを思うと、神が神である事をやめて人となってくださった、しかも、私たちの身代わりとなって死ぬために生まれてきて下さった。どういうことなんだろうか。どんな忍耐なんだろうか。そういうことを思わされます。

 

 いまテサロニケを開いていますが、もう少し終わりの方にある第一ペテロ2章21節から25節までを皆さんと交互に読んでみたいと思います。

 

「(21節)あなた方が召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました。(22節)キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(23節)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(24節)そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(25節)あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」 

 

 22節を見ていただきますと、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」。完全であった、完全な生涯であった、ということですね。私たちの中にも、いい人は多いでしょう。けれども、完全な人はひとりもいません。もし私たちが完全であったなら、キリストは十字架につく必要はなかったからです。ですから、ペテロはこの手紙の中で、キリストの完全性に触れています。23節には、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」。

 私たちはどうでしょう。ののしられたらどうでしょう。苦しめられたらどうしましょう。なかなか難しいのは、正しく裁かれる方にまかせる、ということですね。自分で裁きをつけたくなる。それが私たちですね。これがお互いに「MY WAY」なんですね。

 

 でも、この御方が神の愛のゆえにその身を十字架につけてくださったために、私たちは、24節、罪を離れ義のために生きる者となった。神様との正しい関係を回復されて生きる者となったと書かれています。

 そして戻って21節、私たちが召されたのは、私たちがイエスキリストを信じることができたのは、実は、このためです。それは、あなた方も、示された模範・キリストの足跡に従うように、ということです。けれども、形だけ従ったふりをするのは大変ですし、従うことはできません。なぜならば、すぐ、もう我慢の限界が来てしまいます。

 

 あなたの我慢の限界はどのぐらいでしょうか。自分の心から出て来る忍耐の限界はすぐに底をついてしまいます。でも、心の中にお迎えしたイエスさまの心からから出て来る忍耐が私たちの心をコントロールするならば、私たちもイエスさまの足跡に従うことができる。そして、その示す忍耐によって、神の愛を私たちの周りの人々にも伝えることができる。パウロはテサロニケのクリスチャンに、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とをもたせてくださいますように、と祈りました。

 

 私たちが心から信じている神様は、何と忍耐強く私たちを愛してくださることでしょうか。そしてその御方が私たちに与えて下さった救い主イエスキリストの忍耐が、私たちの心からあふれ出て周りの人に証しされていくこと、それが、私たちが召された目的だというのですね。

 もう我慢の限界。(赤ちゃんの泣き声)。もう赤ちゃんも我慢の限界が来ているようですね。それではこれで終わりにしましょう。      (2013年3月10日)

 
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「イエスさまの姿」 [礼拝]

【聖書箇所】旧約聖書イザヤ書531節〜6

 

 今年は3月の最後の日曜日がイースターということで、いまは受難節です。そして、一週間前から受難週ということになります。イエス様が十字架におかかりになったのは今から2000年以上前のことですが、広い視野からみると、いま自分がこの時代に生かされていること、また日本という国に置かれていること、このことをどう感じたらよいのだろうか、そんなことを思い巡らすこともできると思います。

 

 だんだん年を取ってくると、テレビで、難しいサスペンスを見ていても訳がわからなくなることが多いので、時代劇のような、勝ち負けがはっきりしていてすっきりするものをよく見るのですが、最近、隠れキリシタンがテーマとなっている二つの時代劇を見ました。

 ひとつは、柳生十兵衛という強い剣士の話です。十兵衛の父親が、江戸時代、御禁制のキリシタンを成敗する、と。あの天草四郎などが登場する島原の乱ですね。そして十兵衛は御禁制のキリシタンを切る姿勢を貫くわけです。ああ、あの時代だったら切られていたのだろう、と思います。

 ところが、もうひとつは杉良太郎さんが登場する「新五捕物帳」です。人にぶつかりながら財布をする若者を新五が捕まえて蛮屋に入れる。盗んだ財布がたくさん出てくるのですが、その財布の中の一つから十字架が出てくるんですね。当時は「クロス」ではなく「クルス」と呼んでいたようですが、蛮屋の役人は「だれから十字架の入った財布をすったのだ、それをいえばおまえの罪を放免してやろう」というんですね。そして江戸に侵入したクリスチャンの捜査が始まるわけです。それは、堺でクリスチャンになったといわれる若い女性だったのですが、彼女は江戸で火事がおきると、火の中に飛び込んで坊やを助けたり、「密告されて死ななければならないなら、いさぎよく死ぬ」などというんですね。彼女を観察していた新五親分は彼女にこういうのです。「誰かに言われるまで。あんたが信じていることは黙っていなせい」。その後、彼女は捕まらず江戸から出ていくのですが、新五親分の最後の台詞はこうなんですね。「十字架を財布に忍ばせていても、こんなことで捕まらねえ日が必ず来るとおいら信じているよ」。オーと思いました。

 十字架を財布に忍ばせている方はどれだけおられるでしょうか(笑)。いまはなんと大丈夫な時代かと思いますが、先のことはどうなるかわかりませんが、日本ではないところ、たとえば中国では地下教会があって、いまでもクリスチャンは迫害され、見つかれば死刑になってしまう。

 この時代に生きていること、この国に生かされていること、その意味は何なのだろう。「いわれるまで、あんたが信じていることを黙っていなせえ」と信仰を隠していなければならない時代に生きている人もいますが、けれども、信じていることをもっと正しく正確に知らせる、という逆の時代もあるわけで、そうしたことを思い巡らしながら、今から2000年前の十字架に目をとめたいのです。

 

 今日お読みした聖書箇所のうち、注目していただきたいのは2節です。

 

 「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」

 

 前半と後半が極端に違うことにお気づきになられると思います。他の聖書の訳をみるとこう書いてあります。

 

「神様の目から見れば、彼は柔らかな若い芽のようで、不毛の地から根を吹き出したのです。ところが、私たちの目から見れば人目をひくものは一つもなく好意を抱かせるものも一つもありません。」

 

 「神様の目に見える救い主の姿」と「人の目が見る救い主の姿」の、180度の違いに気づかされます。

 

 昔、若い頃に「ジーザスクライスト・スーパースター」というミュージカルをみたことがありますが、実はイエス様はスーパースターではないですね。あるいは劇画の主人公に出てくる見栄えのよい救い主ではないですね。ユダヤ人はそんな救い主を信じるわけにはいかないといっています。

 

 見栄えがしなかった。でも、人として生きている私たちは、人の前での見栄えを非常に気にしているのではないのでしょうか。

 

 今朝おきてから、鏡を一度も見ないでここにいらっしゃった方はいますか。皆さん礼儀正しいですね。人前に出るんだから身繕いを整えなければ、と鏡を見るんですね。

 

 見栄え。人にどう見えるかと、いうことが非常に気になる、それを気にする。そして、見栄えが悪いことが悪いように評価される、そういう時代に生かされているということだろうと思うのですね。

 しかし、ここを見ると、イエス様は、私たちが見とれるような姿はなかった。これは直訳すると、顔立ちがよくなかった、と書いてあります。もちろん、十字架で打ちたたかれた救い主、そして茨の冠をかぶらされた救い主ですから、人が思わず見とれるような姿、人目をひくような姿は全くなかった。そして、あんな人になれたたら、と好意を抱かせるようなものが、全く十字架のうえの姿の中に見ることができなかった。

 

 でも、こうして私たちの救い主になって下さった、とイザヤは預言の中で語っています。

 

 4節、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」

 5節、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」

 

 イエス・キリストを信じて歩むというときに、私が、この方を十字架につけたんだ。そのことはできるだけ、明確になっていくことは、とても大切なことではないだろうか、と思うんですね。神様の側からみた救い主、人間の側からみた救い主の姿。しばしばそこでも、私たちは見栄えを気にするのではないか、と思わされました。

 もういちどイースターまでの受難節の期間、この救い主の姿を、そのまましっかりと見ることができるように、捉えることができるように、そして、その救いの恵みを味わうことができるように、できたらと思っています。

201333日)


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「信じているって?」 [礼拝]

【お知らせ】

 久しぶりのブログ更新です。矢野譲牧師のメッセージを書き起こしたものを、定期的にアップします。メッセージをプリントアウトして読むもよし、スマホなどで読むのもよし、です。(管理人より)

****************************

 

聖書箇所:新約聖書 ヨハネの手紙第 51113

  

 おはようございます。

 

 旧約聖書の、イエス様がお生まれになる前の預言に、イエス様のことを「不思議な助言者」とよんでいるイザヤ書の箇所があります。英語では「ワンダフル・カウンセラー」と書いてあります。

 でも何がワンダフルなのか、というと、「すばらしい」「不思議だ」いや「驚いた」「当惑した」などと、人によって受けとめ方がさまざまです。素直にワンダフルな御方を受け入れることができる人もいます。けれども、ワンダフルがわからなくて信じられない方々もたくさんいます。なぜなら、イエス様の人生に対する教えは、何といっても世の常識と大いに異なることが多いからです。「悲しんでいる人は幸い」、なにそれえ?、と感じる方もいるでしょう。また、「命を得るためには死ななければならない」「受けるよりも与える方が幸い」「支配するよりも仕えることを選びなさい」「人生の苦しみには目的がある」とイエス様は聖書を通しておっしゃっています。 

 これが私たちに、ときにチャレンジとなります。読む人によっては「そんなことはおかしいこと」「イエス様はずれているのではないか」、そういう風に、世の常識に染まっていると、そういう受けとめ方をしてしまいます。 

 また、イエス様を信じていても、生活の中で、人生において起こることをパターン化しやすいですね。こういうことがおこると、こういうパターンになるから、あの人に相談しよう、と考えたり、それをふまえて、やり方や答え方を決めるということがあります。でもそれは、言ってみれば、小さなこどもが「お父さんお母さん、僕はあなたたちよりも人生のことをよく知っているんだ。」というようなものではないか、と思うのですね。

 本当にイエス様を信じることができたのは不思議だ、クリスチャンとして世の常識の中で歩んでいくチャレンジの中で、イエス様によって守られるということに、驚かされる、すばらしい、と感じられるといいなと思います。

 

  私たちの人生は、スポーツの試合のライブの中継を見ているようなものではないでしょうか。浦和レッズをみていても大相撲をみていてもヨーロッパのサッカーをみていても、私たちは、はらはらします。どきどきします。ショックを受けたり、思いがけないことがおきたり、立ち往生したりする場面や、行き詰まりやいらいらや、不安や途方に暮れる場面があるわけです。

 なぜ、私たちの人生がスポーツの試合のライブを見ているようなものであるかというと、じつは、私たちは自分の人生の結末や結果を知らないからです。もし後ろから全部終わったものをビデオで見ることができるならば、どんなことがあっても、安心して見られるはずです。

 先日、たまたま仕事が休みだった息子は、アメリカンフットボールのスーパーボールの試合をBSで見ていました。私もハワイにいたときに、ホテル学校のチームで少しやっていたことがありました(笑)。ボルチモアレーベンスという名の知られていないチームがあって、敬虔なクリスチャンの選手が、珍しいことなのですが18年間もこのチームでプレーしていました。ボルチモアレーベンスはスーパーボールの予選に残り、最終的には勝つのです。息子は、試合の結果は携帯で知っていましたが、その選手の一つ一つのプレーを楽しむため楽しそうにテレビを見ていました。もし、試合の結果を知らなかったならば、はらはら・どきどきしながら見ていたことでしょう。結果がわかっているから、リラックスして試合を見ることができたと思います。これは、私たちの人生についてもいえることです。でも私たちは結果がわからないから、はらはら・どきどきするのです。 

 

 今日の聖書の箇所によれば、13節、「私が、神の御子の名を信じているクリスチャンであるあなた方に対し聖書を書いたのは、あなたがたクリスチャンが永遠のいのちをもっていることをあなた方クリスチャンによくわからせるためである」と書いてあります。これが、永遠がすでに決まっているという結果です。人生には思いがけないことが起こる。しかし、イエスキリストの十字架の御業のゆえに、どんなことがあっても、永遠はすでに決まっている、そのことをよくわからせるためだ、とヨハネは書いています。 

 そこから自分の現在の人生を見ることができたら、どんなに、わくわく、楽しく、リラックスして人生を過ごすことができることでしょうか。皆さんの中にも、いま人生の中で思いがけないことが起きているかもしれません。昨日がそうだった、あるいは明日がそうであるかもしれません。結果が見えない中で、この世で生きているということは、はらはら・どきどき・いらいらさせられるものです。

 しかし、聖書は、永遠という結果から、もう一度巻き戻して、現在おかれている人生におけるチャレンジ、ストレス、問題、克服すべき課題をみていくことができるように、イエス様に信頼しなさい、神の言葉に信頼しなさい、これが信じているということではないでしょうかと、私たちをチャレンジします。

 

 13節の結果を得るために必要なことは、12節、「御子をもつ者は永遠のいのちをもっており、御子をもたない者は永遠のいのちをもっていません」。はっきり分かれています。

 イエス様のことを聞いた知った。でも、この御方が自分の人生の中に個人的に必要な御方だということで、この方を受け入れる。そのために、自分がどんなに正しく立派に生きようと神のまえでは罪人である事を認め、その罪を赦すため十字架についてくださったイエスキリストが私の救い主であることを、心の中にイエス様をお迎えすることで告白した。それが御子をもつ者となったということでした。

 

 そして11節を見ると、神様は永遠のいのちを与えるんだ。そして、何とこのいのちが御子のうちにある。この方を受け入れた私たちには、永遠がそのときからすでに決まっているのです。しかし長年クリスチャンを送っていても、地上でクリスチャン生活を続けるていくということは、そんなに生やさしいことではない。最初にお話ししたように、世の常識と全く異なることをおっしゃる御方を救い主として自分の人生に受け入れ、信じ従って歩むからです。

 

 皆さんのご家族やお友達から、信じているってどういうこと? と聞かれることがあるのではないでしょうか。そんなとき、自分自身がもう一度この方の不思議さ、すばらしさを確認しながら歩ませていただきたいと思いますし。そして、神様が言葉にして下さることを、周りの大切な人々に伝える。あるいは語っても通じない人には、イエス様の振るまいが自分を通じてあらわされる。そのように願っていきたいものです。

 なぜなら、アメイジンググレース、歌だけではない、本当のアメイジングな恵みが、私たちの人生の中には満ちている。全能の神が、あなたとともにおられるからだ。この御方が、救い主であり、慰め主であり、導き主であり、日々私たちには見えていないかもしれない祝福を与える方である、ということを、しっかりと心に刻み歩む必要があると思います。

 まず自分自身にイエスキリストを信じていることはどういうこと、という問いかけから始める。周りの人から聞かれるとき、信じているとは、信じたときからずっと永遠にいたるまでのことであることを思い起こす。そこから巻き戻していって、自分の人生の今のために、私たちの救い主から、力・愛・慰め・喜び与えていただきたい、と心から願っています。

    
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2011-09-26 [礼拝]

      IMG_5660.jpg 
 
婦人のバイブルスタディーで、最近アブラハムの妻サラ、ルツ記のナオミとルツについて
少し学び、たくさん分かち合いをしました。
そして次回は、誰について学びましょうかという時に、こういうアイデアが出ました。
 
サラは、新約女性のモデルになっているようだし、ルツとナオミはこれ以上はない
という嫁と姑でしょう。
すてきな女性像を学ぶのも益になりますが、たまには
「何この女(ヒト)?」というような女性について観察したり、
分かち合うことで、もっと私たちも安心し、望みを持つことが出来るのではないでしょうか!
 
「なるほど!」ということで、旧約聖書の中からそういう女性のことを
少しの間学んでみることにしました。
 
 
 
*参加している方の中に、視力に不安がありながら毎回来てくださっている方が
おられます。
ある時その方が語られたひとことがずっと心に残っています。
 
「私はみなさんにお会いするとき、いつも<声でこの人だ、あの人だと
わかる>んです」 
 
さて、自分の声はこの方に<どのようい聞こえてくるのだろう>と思いを
めぐらせています。
 
周りの人々に聞こえている自分の声で、自分の品性まで印象付けられるとしたら
ほんとうにイエスさまに心をコントロールして頂いて、小さなこと、何気ないことも
ていねいに、たいせつに歩みを進めたいものです。
 
このバイブルスタディーでも、集まってきてくださる方々を通して、
神さまからいろんなことを教えていただいています。
 
 
 
 

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実は、いたんですが・・・ [礼拝]

IMG_5412.jpg 
 
夏の臨時教団牧師会のランチ。
いつもはお弁当なのですが、この日は群馬県のTB教会が会場でしたので、
それぞれ分散して近くのお店が書かれている地図を頼りに出かけました。
 
気心の知れた先生方と4人で出発することになりました。
車内での会話を再現すると・・・
 
YH師 「あ、カレー屋さんがある。食べたいな。」
MO師 「じゃ、行ってみましょう」 お店が見えてくると・・・
TK師 「あそこはたいしたことないよ。」  するとすぐ右手にGT店が・・・
 
MO師 「ここにしましょう。寝不足だから、濃いコーヒーが飲みたくて。」
「ここにも確かカレーありましたね?!」
 
ということでGT店へ。   しばらくして・・・
 
TK師 「実は、日曜日にカレーを食べていたんです。だから・・・」
YH師 「そうだったんですか!」
私   「それにしても、こんなに遠くまで食べにきたのは私たちだけでしたね。」
 
こうして楽しいランチと牧師会が終わって家に戻り、次の日午前中にニュースが。
 
「東北4件のGT店で赤痢菌による食中毒がおこり、栃木県の一部も含めて営業自粛
に入りました。」
 
!!
 
隣でテレビを見ていた家内に、「私、大丈夫かな?」と思わずひと言。
そしてハンバーガーを注文したMO師にメールしてみると、「ギリギリセーフだったみたいです。
危なかったですね。何とか生きてます :-)」とのこと。
 
食欲、自分の都合、たまたまそこにあった便利なお店。好意でわざわざ遠いところまで。 
いろんなことが重なる中、今回もまた不思議<Wonderful>に守られました。
 
神さまのあわれみ、祈っていただいた皆さんのとりなし、本当に感謝です。 
 
 
 

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