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「もう我慢の限界?」 [礼拝]

【聖書箇所:新約聖書 第二テサロニケ3章5節】

 昨日、ここに礼拝の準備に来た帰りに、パインズホテルの近くを通りました。そうしたら、ある家のベランダに洗濯物が干してありました。よくみると浦和レッズのユニフォームでした。数えてみると11枚ありました。番号を調べてみると昨日の先発メンバーを予想したようなのが書いてありました。一着5000円ぐらいするのでしょうか。11着か、ああすごい献身的だな(笑)と思い、家に帰りました。

 新聞を見ますと、他のチームから新加入した、昨日の試合でも活躍した、珍しい名前の選手のコメントが出ていました。「僕は名前を覚えられていないのでスタジアムでも呼ばれないんですよね。もっとアピールしないと。」。周りの人からの声援や応援は、かけがえのないものですね。

 

 あすで3.11(東日本大震災)から2年が経ちますけれども、被災者の変わらない現状がテレビなどの番組で多く流されていました。応援メッセージは、「もう少し頑張って」あるいは「もう少しの我慢」がとっても多かったと思います。

 さて、皆さんは忍耐強い人でしょうか。あるいは、周りを見渡して、誰が教会の中で忍耐強いかな、と思われるでしょうか。私はそういうときに、「自分以外に」忍耐強いのはあの人ではないか、と思うんですよね。絶対に自分が忍耐強いなんて思うことができない。

 

 生活パターンの変化にもよるのでしょうが、私たちは、いつも「先へ先へ」「速く速く」、そういう傾向をもって自分の道を歩んでいるのではないでしょうか。自分の道を歩むことは大切ですが、自分本位になってしまうことには注意を払わなければならないわけですね。

 私は自転車をもう乗らなくなりましたが、あいかわらず自転車で行き違う方々は右側をがんがん走ってきてですね、あれちょっと違うのではないか、とずいぶん文句を言いたくなります。車はすぐにクラクションをならして、右折のサインを出しているのに、なんで前の車は行かないんだと、運転手はいらいらしています。また、あるときには、新車を買った人が交通渋滞に巻き込まれ、となりのレーンが空いているのでいってみたら、セメントづけになってしまったなどということも、ある本に書かれていました。

 

 私たちは、いつも「先へ」あるいは「速く」、自分は「予定通り」に「計画通り」に、それがスムーズに進むように、そういうことを思っているので、待てない、ということは、忍耐強くない、ということですね。人付き合いの場合でも、うまくいかなくなったときに、まあ、ある方々はこれは自分が悪いのだと思うかもしれません。しかし、多くの場合は、相手がもう少し変わってくれればと思うことが多いのではないでしょうか。そして、そのイメージを、人間に対してだけでなく、神様に対しても、当てはめてしまうのではないでしょうか。神様も、うちの父親のように怒りっぽいのではないか、うちの母親のように短気ではないだろうか、職場の同僚のように過ちを許さないのではないだろうか。そんなイメージを神様に持ってしまうことが多いようです。

 

 でもここで、第二テサロニケ3章5節に、これは、パウロが再臨を待ち望むテサロニケのクリスチャンに2000年前に宛てて書いた手紙ですが、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」とお祈りしています。神様は、あなた方が思っている以上に、なんと忍耐強くあなた方を愛している御方なのだろうか。そうであるがゆえに、十字架のうえでイエスさまがあれだけの忍耐を示してくださったのだ、ということをテサロニケのクリスチャンにわかってほしい。そういうことを願ってこのような手紙を書いています。

 

 いま私たちはイエスさまの十字架を忍ぶ受難節を過ごしています。イエスさまは私たちのためにご自身の立場を捨ててくださいました。自分の特権を行使することをなさいませんでした。この地上に来られたときには、僕(しもべ)として来られた、と書かれています。それは、ご自分のいのちを、私たちのいのちが生きるために、犠牲として与えるためであった。 なぜ、そこまでしなければならなかったのか。それは、唯一の天の父なる神と、私たちの創造主と、私たち人間が、もう一度喜びにあふれた関係を取り戻すためであった、と聖書は語っています。

 

 さてイエス様はどれぐらい犠牲を払ってくださったでしょうか。想像できる方がおられますでしょうか。個人的なことに当てはめてみると少し具体的に考えることができるかもしれません。たとえば、あなたが普段している好きなこと、あるいは好きなものをしばらくの間我慢してみよう。そういう試みをしたとしましょう。一週間、一ヶ月、一年間と決めて、ようし我慢するぞ。でも、多くの場合、我慢しようとすればするほど、いっそう強くそれを求めてしまうのが、私たちの傾向ではないでしょうか。そんなことを思うと、神が神である事をやめて人となってくださった、しかも、私たちの身代わりとなって死ぬために生まれてきて下さった。どういうことなんだろうか。どんな忍耐なんだろうか。そういうことを思わされます。

 

 いまテサロニケを開いていますが、もう少し終わりの方にある第一ペテロ2章21節から25節までを皆さんと交互に読んでみたいと思います。

 

「(21節)あなた方が召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました。(22節)キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(23節)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(24節)そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(25節)あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」 

 

 22節を見ていただきますと、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」。完全であった、完全な生涯であった、ということですね。私たちの中にも、いい人は多いでしょう。けれども、完全な人はひとりもいません。もし私たちが完全であったなら、キリストは十字架につく必要はなかったからです。ですから、ペテロはこの手紙の中で、キリストの完全性に触れています。23節には、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」。

 私たちはどうでしょう。ののしられたらどうでしょう。苦しめられたらどうしましょう。なかなか難しいのは、正しく裁かれる方にまかせる、ということですね。自分で裁きをつけたくなる。それが私たちですね。これがお互いに「MY WAY」なんですね。

 

 でも、この御方が神の愛のゆえにその身を十字架につけてくださったために、私たちは、24節、罪を離れ義のために生きる者となった。神様との正しい関係を回復されて生きる者となったと書かれています。

 そして戻って21節、私たちが召されたのは、私たちがイエスキリストを信じることができたのは、実は、このためです。それは、あなた方も、示された模範・キリストの足跡に従うように、ということです。けれども、形だけ従ったふりをするのは大変ですし、従うことはできません。なぜならば、すぐ、もう我慢の限界が来てしまいます。

 

 あなたの我慢の限界はどのぐらいでしょうか。自分の心から出て来る忍耐の限界はすぐに底をついてしまいます。でも、心の中にお迎えしたイエスさまの心からから出て来る忍耐が私たちの心をコントロールするならば、私たちもイエスさまの足跡に従うことができる。そして、その示す忍耐によって、神の愛を私たちの周りの人々にも伝えることができる。パウロはテサロニケのクリスチャンに、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とをもたせてくださいますように、と祈りました。

 

 私たちが心から信じている神様は、何と忍耐強く私たちを愛してくださることでしょうか。そしてその御方が私たちに与えて下さった救い主イエスキリストの忍耐が、私たちの心からあふれ出て周りの人に証しされていくこと、それが、私たちが召された目的だというのですね。

 もう我慢の限界。(赤ちゃんの泣き声)。もう赤ちゃんも我慢の限界が来ているようですね。それではこれで終わりにしましょう。      (2013年3月10日)

 
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「イエスさまの姿」 [礼拝]

【聖書箇所】旧約聖書イザヤ書531節〜6

 

 今年は3月の最後の日曜日がイースターということで、いまは受難節です。そして、一週間前から受難週ということになります。イエス様が十字架におかかりになったのは今から2000年以上前のことですが、広い視野からみると、いま自分がこの時代に生かされていること、また日本という国に置かれていること、このことをどう感じたらよいのだろうか、そんなことを思い巡らすこともできると思います。

 

 だんだん年を取ってくると、テレビで、難しいサスペンスを見ていても訳がわからなくなることが多いので、時代劇のような、勝ち負けがはっきりしていてすっきりするものをよく見るのですが、最近、隠れキリシタンがテーマとなっている二つの時代劇を見ました。

 ひとつは、柳生十兵衛という強い剣士の話です。十兵衛の父親が、江戸時代、御禁制のキリシタンを成敗する、と。あの天草四郎などが登場する島原の乱ですね。そして十兵衛は御禁制のキリシタンを切る姿勢を貫くわけです。ああ、あの時代だったら切られていたのだろう、と思います。

 ところが、もうひとつは杉良太郎さんが登場する「新五捕物帳」です。人にぶつかりながら財布をする若者を新五が捕まえて蛮屋に入れる。盗んだ財布がたくさん出てくるのですが、その財布の中の一つから十字架が出てくるんですね。当時は「クロス」ではなく「クルス」と呼んでいたようですが、蛮屋の役人は「だれから十字架の入った財布をすったのだ、それをいえばおまえの罪を放免してやろう」というんですね。そして江戸に侵入したクリスチャンの捜査が始まるわけです。それは、堺でクリスチャンになったといわれる若い女性だったのですが、彼女は江戸で火事がおきると、火の中に飛び込んで坊やを助けたり、「密告されて死ななければならないなら、いさぎよく死ぬ」などというんですね。彼女を観察していた新五親分は彼女にこういうのです。「誰かに言われるまで。あんたが信じていることは黙っていなせい」。その後、彼女は捕まらず江戸から出ていくのですが、新五親分の最後の台詞はこうなんですね。「十字架を財布に忍ばせていても、こんなことで捕まらねえ日が必ず来るとおいら信じているよ」。オーと思いました。

 十字架を財布に忍ばせている方はどれだけおられるでしょうか(笑)。いまはなんと大丈夫な時代かと思いますが、先のことはどうなるかわかりませんが、日本ではないところ、たとえば中国では地下教会があって、いまでもクリスチャンは迫害され、見つかれば死刑になってしまう。

 この時代に生きていること、この国に生かされていること、その意味は何なのだろう。「いわれるまで、あんたが信じていることを黙っていなせえ」と信仰を隠していなければならない時代に生きている人もいますが、けれども、信じていることをもっと正しく正確に知らせる、という逆の時代もあるわけで、そうしたことを思い巡らしながら、今から2000年前の十字架に目をとめたいのです。

 

 今日お読みした聖書箇所のうち、注目していただきたいのは2節です。

 

 「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」

 

 前半と後半が極端に違うことにお気づきになられると思います。他の聖書の訳をみるとこう書いてあります。

 

「神様の目から見れば、彼は柔らかな若い芽のようで、不毛の地から根を吹き出したのです。ところが、私たちの目から見れば人目をひくものは一つもなく好意を抱かせるものも一つもありません。」

 

 「神様の目に見える救い主の姿」と「人の目が見る救い主の姿」の、180度の違いに気づかされます。

 

 昔、若い頃に「ジーザスクライスト・スーパースター」というミュージカルをみたことがありますが、実はイエス様はスーパースターではないですね。あるいは劇画の主人公に出てくる見栄えのよい救い主ではないですね。ユダヤ人はそんな救い主を信じるわけにはいかないといっています。

 

 見栄えがしなかった。でも、人として生きている私たちは、人の前での見栄えを非常に気にしているのではないのでしょうか。

 

 今朝おきてから、鏡を一度も見ないでここにいらっしゃった方はいますか。皆さん礼儀正しいですね。人前に出るんだから身繕いを整えなければ、と鏡を見るんですね。

 

 見栄え。人にどう見えるかと、いうことが非常に気になる、それを気にする。そして、見栄えが悪いことが悪いように評価される、そういう時代に生かされているということだろうと思うのですね。

 しかし、ここを見ると、イエス様は、私たちが見とれるような姿はなかった。これは直訳すると、顔立ちがよくなかった、と書いてあります。もちろん、十字架で打ちたたかれた救い主、そして茨の冠をかぶらされた救い主ですから、人が思わず見とれるような姿、人目をひくような姿は全くなかった。そして、あんな人になれたたら、と好意を抱かせるようなものが、全く十字架のうえの姿の中に見ることができなかった。

 

 でも、こうして私たちの救い主になって下さった、とイザヤは預言の中で語っています。

 

 4節、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」

 5節、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」

 

 イエス・キリストを信じて歩むというときに、私が、この方を十字架につけたんだ。そのことはできるだけ、明確になっていくことは、とても大切なことではないだろうか、と思うんですね。神様の側からみた救い主、人間の側からみた救い主の姿。しばしばそこでも、私たちは見栄えを気にするのではないか、と思わされました。

 もういちどイースターまでの受難節の期間、この救い主の姿を、そのまましっかりと見ることができるように、捉えることができるように、そして、その救いの恵みを味わうことができるように、できたらと思っています。

201333日)


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