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「信じているって?」 [礼拝]

【お知らせ】

 久しぶりのブログ更新です。矢野譲牧師のメッセージを書き起こしたものを、定期的にアップします。メッセージをプリントアウトして読むもよし、スマホなどで読むのもよし、です。(管理人より)

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聖書箇所:新約聖書 ヨハネの手紙第 51113

  

 おはようございます。

 

 旧約聖書の、イエス様がお生まれになる前の預言に、イエス様のことを「不思議な助言者」とよんでいるイザヤ書の箇所があります。英語では「ワンダフル・カウンセラー」と書いてあります。

 でも何がワンダフルなのか、というと、「すばらしい」「不思議だ」いや「驚いた」「当惑した」などと、人によって受けとめ方がさまざまです。素直にワンダフルな御方を受け入れることができる人もいます。けれども、ワンダフルがわからなくて信じられない方々もたくさんいます。なぜなら、イエス様の人生に対する教えは、何といっても世の常識と大いに異なることが多いからです。「悲しんでいる人は幸い」、なにそれえ?、と感じる方もいるでしょう。また、「命を得るためには死ななければならない」「受けるよりも与える方が幸い」「支配するよりも仕えることを選びなさい」「人生の苦しみには目的がある」とイエス様は聖書を通しておっしゃっています。 

 これが私たちに、ときにチャレンジとなります。読む人によっては「そんなことはおかしいこと」「イエス様はずれているのではないか」、そういう風に、世の常識に染まっていると、そういう受けとめ方をしてしまいます。 

 また、イエス様を信じていても、生活の中で、人生において起こることをパターン化しやすいですね。こういうことがおこると、こういうパターンになるから、あの人に相談しよう、と考えたり、それをふまえて、やり方や答え方を決めるということがあります。でもそれは、言ってみれば、小さなこどもが「お父さんお母さん、僕はあなたたちよりも人生のことをよく知っているんだ。」というようなものではないか、と思うのですね。

 本当にイエス様を信じることができたのは不思議だ、クリスチャンとして世の常識の中で歩んでいくチャレンジの中で、イエス様によって守られるということに、驚かされる、すばらしい、と感じられるといいなと思います。

 

  私たちの人生は、スポーツの試合のライブの中継を見ているようなものではないでしょうか。浦和レッズをみていても大相撲をみていてもヨーロッパのサッカーをみていても、私たちは、はらはらします。どきどきします。ショックを受けたり、思いがけないことがおきたり、立ち往生したりする場面や、行き詰まりやいらいらや、不安や途方に暮れる場面があるわけです。

 なぜ、私たちの人生がスポーツの試合のライブを見ているようなものであるかというと、じつは、私たちは自分の人生の結末や結果を知らないからです。もし後ろから全部終わったものをビデオで見ることができるならば、どんなことがあっても、安心して見られるはずです。

 先日、たまたま仕事が休みだった息子は、アメリカンフットボールのスーパーボールの試合をBSで見ていました。私もハワイにいたときに、ホテル学校のチームで少しやっていたことがありました(笑)。ボルチモアレーベンスという名の知られていないチームがあって、敬虔なクリスチャンの選手が、珍しいことなのですが18年間もこのチームでプレーしていました。ボルチモアレーベンスはスーパーボールの予選に残り、最終的には勝つのです。息子は、試合の結果は携帯で知っていましたが、その選手の一つ一つのプレーを楽しむため楽しそうにテレビを見ていました。もし、試合の結果を知らなかったならば、はらはら・どきどきしながら見ていたことでしょう。結果がわかっているから、リラックスして試合を見ることができたと思います。これは、私たちの人生についてもいえることです。でも私たちは結果がわからないから、はらはら・どきどきするのです。 

 

 今日の聖書の箇所によれば、13節、「私が、神の御子の名を信じているクリスチャンであるあなた方に対し聖書を書いたのは、あなたがたクリスチャンが永遠のいのちをもっていることをあなた方クリスチャンによくわからせるためである」と書いてあります。これが、永遠がすでに決まっているという結果です。人生には思いがけないことが起こる。しかし、イエスキリストの十字架の御業のゆえに、どんなことがあっても、永遠はすでに決まっている、そのことをよくわからせるためだ、とヨハネは書いています。 

 そこから自分の現在の人生を見ることができたら、どんなに、わくわく、楽しく、リラックスして人生を過ごすことができることでしょうか。皆さんの中にも、いま人生の中で思いがけないことが起きているかもしれません。昨日がそうだった、あるいは明日がそうであるかもしれません。結果が見えない中で、この世で生きているということは、はらはら・どきどき・いらいらさせられるものです。

 しかし、聖書は、永遠という結果から、もう一度巻き戻して、現在おかれている人生におけるチャレンジ、ストレス、問題、克服すべき課題をみていくことができるように、イエス様に信頼しなさい、神の言葉に信頼しなさい、これが信じているということではないでしょうかと、私たちをチャレンジします。

 

 13節の結果を得るために必要なことは、12節、「御子をもつ者は永遠のいのちをもっており、御子をもたない者は永遠のいのちをもっていません」。はっきり分かれています。

 イエス様のことを聞いた知った。でも、この御方が自分の人生の中に個人的に必要な御方だということで、この方を受け入れる。そのために、自分がどんなに正しく立派に生きようと神のまえでは罪人である事を認め、その罪を赦すため十字架についてくださったイエスキリストが私の救い主であることを、心の中にイエス様をお迎えすることで告白した。それが御子をもつ者となったということでした。

 

 そして11節を見ると、神様は永遠のいのちを与えるんだ。そして、何とこのいのちが御子のうちにある。この方を受け入れた私たちには、永遠がそのときからすでに決まっているのです。しかし長年クリスチャンを送っていても、地上でクリスチャン生活を続けるていくということは、そんなに生やさしいことではない。最初にお話ししたように、世の常識と全く異なることをおっしゃる御方を救い主として自分の人生に受け入れ、信じ従って歩むからです。

 

 皆さんのご家族やお友達から、信じているってどういうこと? と聞かれることがあるのではないでしょうか。そんなとき、自分自身がもう一度この方の不思議さ、すばらしさを確認しながら歩ませていただきたいと思いますし。そして、神様が言葉にして下さることを、周りの大切な人々に伝える。あるいは語っても通じない人には、イエス様の振るまいが自分を通じてあらわされる。そのように願っていきたいものです。

 なぜなら、アメイジンググレース、歌だけではない、本当のアメイジングな恵みが、私たちの人生の中には満ちている。全能の神が、あなたとともにおられるからだ。この御方が、救い主であり、慰め主であり、導き主であり、日々私たちには見えていないかもしれない祝福を与える方である、ということを、しっかりと心に刻み歩む必要があると思います。

 まず自分自身にイエスキリストを信じていることはどういうこと、という問いかけから始める。周りの人から聞かれるとき、信じているとは、信じたときからずっと永遠にいたるまでのことであることを思い起こす。そこから巻き戻していって、自分の人生の今のために、私たちの救い主から、力・愛・慰め・喜び与えていただきたい、と心から願っています。

    
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